魂の旋律を受け継ぐ奄美のブルース 盛島貴男

盛島貴男

龍郷町屋入集落の人里離れた広い敷地に、盛島貴男の自宅兼奄美竪琴の工房があり、人懐っこい3匹の子犬たちと共に暮らしている。島ではかなりの自由人として有名である。

盛島貴男。1950年(昭和25年)生まれ。高校卒業後、1968〜1975年の7年間、東京の中華料理屋で皿洗い、洋食屋でのピザ焼き、国鉄の工事現場での鉄筋工、ふすま屋など様々な仕事を経験してきた。

75年、島に戻ってからは土木作業員、ダンプカーを購入して運送業や、ログハウス造りなど、やりたい事は何でもトコトンやったという。

最近では、加世間の山奥にあるじょうごの滝の周辺をユンボで開墾してシイタケ栽培も手がけている。

「何でもすぐにカタチにし、作ることができる。生きる為の知恵とスキルを身に付けた」と盛島氏は言う。

盛島貴男

奄美市笠利町出身の里国隆(さとくにたか)という、奄美・沖縄で奄美竪琴を弾きながら「樟脳」を売り、放浪していた伝説の盲目の唄者がいた。
(樟脳・・・クスノキの根や枝を蒸留して得られる結晶。香料、防臭剤、殺虫剤として利用。)

ドスのきいた腹の底から絞りあげるかのような声でウタを唄い、その野太く枯れた声を、奄美の人々は「黒声(クルグィ)」と呼んで畏怖した。

盛島は、小学生の頃に路上で唄う里の島唄を耳にしたことがあった(里は85年に死去)。その時の里を、盛島は不気味さを感じながらも興味があった事を憶えている。それっきり里とは無縁だったが、96年に出た彼の生前残したCDを聴き、歳月を経て、一気にその時の想いがよみがえったという。

盛島貴男

そしてすぐに、里の親類を捜した盛島は、形見の竪琴をコピーさせてもらい、現在の竪琴になるまで、改良に改良を重ね製作をしてきた。

盛島は「僕には、竪琴を作れるという確信があった。これまでいろいろな仕事をやってきた。だから、竪琴を作ることも、唄うことも絶対にできると思った」と語る。

奄美竪琴は通常の琴の半分くらいの長さで1メートル。弦は鉄製。竪琴を膝に立てて、爪弾きながら弦をかき鳴らし、支えている左手で四ツ竹というカスタネットのような竹の楽器を打ちながら唄う。

盛島貴男

盛島は里が生前に語っていた、「唄はうまく唄わなくてよい、ただ大きな声で歌い楽しめばよい」という言葉を大事にしている。それは、飾ることなく、己自身をさらけ出せということなのかもしれない。

私は盛島の唄を初めて聞いた時、全身に稲妻が走ったかのような衝撃を受けたのを憶えている。それは、浪曲調を感じさせる野太い唄声と、澄み渡る優美な竪琴の音色が重なりあった、魂の旋律のように感じた。

盛島貴男

「昔の奄美大島では唄遊びとして、即興で一人が唄い、別の人が返し、また次の人に渡していくという遊びがあった。  今の人たちは定型にとらわれすぎていて、個が無いように感じる。もっと自由に新しいモノを作っていく、遊び心を大事にしていけば良いと思う」と盛島氏は語った。

周りに流されない自由な生き方、人間力に、いつしか引きこまれている自分がいた。それが、「盛島貴男」なのだろう。

盛島貴男

1950年、奄美大島生まれ。
奄美竪琴の制作販売/シイタケ栽培・販売
昨年、2015年9月に盛島自身初のデビュー作となる「奄美竪琴」が発売され、多くのアーティストを魅了した。シマ唄に限らず、日本各地の民謡、俗謡、歌謡曲からフォークまで巾広いジャンルを独自の音楽感でアレンジして演奏。

この記事を書いたフォトライターPHOTO WRITER

フォトグラファー/写真家。古林洋平写真事務所。奄美2世。広告・カタログ・ファッション等の撮影を手掛ける傍ら、ルーツである奄美を独自の視点でとらえ、国内外において写真展等で発表する。また、全国の高校生たちと向き合い、撮影をする「青い春」など、精力的に活動。

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