シマが育んだ奄美の歌姫、元ちとせ。歌で繋ぎ、伝え、愛していく。

島唄

2022/08/22

ペン

麓 卑弥呼

元ちとせのデビュー前とデビュー後。

世界自然遺産登録や観光地として注目を浴びる奄美だが、その注目度の変遷を語る上で、ひとつのラインとされるぐらい、この歌姫のデビューは鮮烈だった。

ポップスに奄美シマ唄独特のこぶしが入り込み、聞いたことのない不思議な世界観となったメジャーデビュー曲「ワダツミの木」。海の神の名前を用いたタイトル、ほぼ無名の元ちとせという歌手、耳なじみのない歌い方…しかし一度聞いたら忘れられない歌声に、多くの人の心が捕らえられ、オリコンチャート1位を記録。

そして曲の大ヒットとともに、元ちとせの出身である「奄美」も注目を浴びた。

島口とシマ唄が当たり前に耳に入る日常。遊び感覚で始めた三味線。成長とともに島文化の結晶である「シマ唄」を学び、その後独自の「歌」へと昇華させた歌姫は、いまや奄美を代表するシンガーとなった。

遊び相手が三味線だった

生まれたのは奄美大島最南部の町・瀬戸内町。美しい海と山とに囲まれた、小さな集落(シマ)だった。

母は奄美大島の特産品・大島紬の機織りを仕事としていて、その間のBGMは「シマ唄」。近所のお兄ちゃんは三味線を弾いている。そんなシマ唄が身近にある生活の中で、「週1回、公民館講座で三味線講座があるよ。行く?」と親から誘われたのが小学5年生。

「行く!」という元の即答は、「街に行ける!」という思いが大きかったという。

家がある集落から山を越えて、にぎやかな街に行ける。下心ありのきっかけではあったが、「街の子たちはそれほど興味がある感じではなかったが、私は遊び相手が三味線だった」ため、みるみる上達。褒められればうれしくなり、さらに腕を磨いた。

奄美のシマ唄には楽譜がない。耳から覚えていくため三味線だけでなく唄も習っていかないと次の唄が覚えられない。小学生終わりごろにはシマ唄の練習にも踏み込んでいった。

奄美大島で毎年開催されるシマ唄のコンテスト「奄美民謡大賞」。教室の先生から「大会に出てみないか」と声がかかった。親も「賞をとれれば自信になるよ。やってみたら」と背中を押してくれた。

一方、元は「大会は名瀬(奄美大島の中心部の大きな街)である。名瀬に行ける!」。またしても「街」への憧れが動機にはなったが、こうして本格的にシマ唄に取り組むようになる。

おしゃべりがシマ唄のように聞こえた


中学生からはいよいよ「奄美民謡大賞」にエントリーして参戦。

高校1年生で新人賞を受賞。そして高校3年生で、全エントリー唄者のなかでの最高賞となる「大賞」を受賞。当時史上最年少での受賞となった。

この快挙には、高校2年生の痛い経験が大切な踏み台になっている。

「新人賞を取り、高2ごろは友達と遊んだりして、練習をしなかった時期があった。すると民謡大賞で入賞することができず、満足いく唄もできない結果に。島の人たちに失礼だと感じた」。

次はぜったいに大賞をとる。とれなかったらシマ唄をやめる。


並々ならぬ決意で臨んだ高校生最後の大会。悲哀のこもった「嘉徳なべ加那節」が会場を魅了した。史上最年少の奄美民謡大賞受賞だった。


現在も、奄美にはシマ唄教室があちこちにあり、少年少女から大人まで多くの人がシマ唄を習っている。しかし懸念されているのは「島口(島の方言)」離れ。シマ唄はすべて島口、歌詞の内容は島人たちの暮らしのなかで生まれた悲哀や喜び、教えなどをうたっているものが多い。

「島口にはまったく違和感はなかった。周りはみな島口だったので」と元は言う。

おばたちのにぎやかな、島口たっぷりのおしゃべり。
ばあちゃんの話し声は独特の抑揚があって、まるでシマ唄のように耳に届いてきた。

「シマ唄は舞台芸能ではなく、日常歌だ」と言われる。人々の暮らしのなかから生まれた唄であり、プロを持たず、かつては宴席で「唄遊び」をみなが楽しんだものだったからだ。しかし私たちの日常のなかにシマ唄や島口の存在が薄れていく懸念が叫ばれているなか、元の環境は、かつての島の暮らしを残した、まさにシマ唄が自然に周りにある環境だったのだと思う。


自然と出たシマ唄のこぶし。「すごくしっくりきた」


奄美民謡大賞受賞によってテレビなどでも取り上げられたことから、歌手活動を誘うスカウトも訪れたが、すべて断り、夢だった美容師を目指して大阪へ。

しかし薬剤が肌に合わず、帰郷しようかと思ったところに、かつて実家まで足を運んできてくれたレコード会社のスタッフの名刺が出てきた。それが契機。「いきあたりばったりの性格」と元は笑うが、歌手への道がつながったのは、今となっては運命だったとしか思えない。

当初、ポップスを歌うときは、シマ唄では当たり前の「こぶし」は封印していた。
レコーディングでいろいろな歌い方を試していたなか、事務所の先輩であるシンガーソングライター・山崎まさよしさんの「名前のない鳥」を歌ったときに、テンポが速く、自然とこぶしがついてきた。

「これはおもしろい」

それまでは首をひねることが多かった社長が褒めた。

「”シマ唄を守らなければ”と思っていたので、こぶしは封印していた。でも、この歌はシマ唄ではないから、この歌い方でもシマ唄を壊すことにはならない」と元自身も納得。

なによりも、こぶしを入れて歌うことに「すごくしっくりきた。私の自然な歌い方、なのだと気がついた」のだという。日常から身体に染み込んだシマ唄の心と技法が外界の洗礼を受け、本当の自分自身の歌が見つかった。シンガー・元ちとせが誕生した瞬間だったのかもしれない。


島を知る「入口」になれたらいい

そこからの活躍は語るまでもなく、大きな波を作り上げるように「元ちとせ」「奄美」の両キーワード・存在は多くの人に知られることとなった。

2018年には自身の原点であるシマ唄を集めたアルバム「元唄〜元ちとせ 奄美シマ唄集〜」をリリース。民謡クルセイダーズとのコラボレーションで新しい解釈によるシマ唄のアレンジや、その後にアナログレコードでリリースした「元唄 幽玄 ~元ちとせ奄美シマ唄REMIX~」では国内外の気鋭のアーティストたちによるシマ唄リミックスで異なるジャンルとの融合を図るなど、伝統的なシマ唄を新たな音楽として広く届けることにもチャレンジしている。

また、世界自然遺産に登録が決定した夏には島の風を感じられる楽曲を集めた「トコトワ〜奄美セレクションアルバム」をリリースしたり、昨年スタートした全国に奄美大島の魅力を発信するとともに、世界自然遺産を後世に残すため、旅行者の環境保全意識を高めていくことを目的としたキャンペーン「いのち、むきだし。奄美大島」のテーマソング「えにしありて」を歌い、自然とともに奄美の文化の魅力を伝える一翼も担う。

2022年にデビュー20周年を迎えた。

奄美も、ここ20年でさまざまに変化してきた。

「島人の魅力は、感情表現豊かで素直なところかなと思います。親しい人に対して、格好つけずに笑い、怒り、唄う。人間として、本質的に大切なことがちゃんとある。そんなもともとのやさしさ、強さがそのまま変わらなければいいなあ、と思います」

奄美大島に住み音楽活動を続けると同時に、「奄美」を紹介するアイコン的存在、また奄美出身シンガーたちから親しまれる「姐さん」的な存在でもある。多くの役割を担うように見えるが、あくまで本人は自然体。

「やっぱり、島の人たち、子どもたちに、島ってかっこいい!と思ってもらえるような自分自身の活動をしていきたいですね。島を知る『入口』になれたらいいな、とも思います。入口に触れたら、島に来てほしい。来てもらえたら素晴らしさは伝わると思うので」

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奄美が生んだ「シマ唄」という文化を吸収し、外へと羽ばたいた少女は、さらに大きな羽を手に入れて島に戻ってきた。その羽の美しさはもちろん、羽ばたきの力強さはさらに広い世界へと奄美をいざない、あたたかな風を呼び起こしてくれているように思う。

これからも島とともにあり続けるシンガー・元ちとせの音楽を聞き続けていきたい。

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この記事を書いたフォトライター

麓 卑弥呼

麓 卑弥呼

ライター/しーまブログ編集長。東京都出身。大学時代に訪れた与論島にはじまり、縁あって奄美大島の新聞社に新卒で就職。さらに縁あって島人と結婚し、自らが島人となり奄美に完全に根を下ろす。フリーライターなどを経て2014年にしーまブログに入社し、現在に至る。

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