唄者、中村瑞希さん。母となり、子どもたちへ残したいシマの宝もの。

島人

2023/03/06

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ムラタ マチヨ

奄美大島の北部、奄美市笠利町。
のどかな風景が広がる集落(シマ)で、初めての子育てに奮闘している女性がいた。

「子どもには『あなたのルーツはここにあるよ』といえるものを残してあげたい。」

そう語ってくれたのは唄者、中村瑞希(なかむら みずき)さん、43歳。
奄美市笠利町出身。

シマ唄の歌い手、唄者として19歳でCDデビュー、民謡民舞全国大会にて内閣総理大臣賞を獲得するなど数多くの栄誉に輝いている実力者だ。

現在は1歳の男の子の育児に奮闘しながら、地元の先輩たちと一緒に大笠利わらべ島唄クラブで子どもたちにシマ唄を教えている。

歌うことが好きで続けていたシマ唄。思いもよらぬCDデビュー。

中村さんがシマ唄を歌い始めたのは、小学四年生の時、叔父の結婚式がきっかけだった。

余興でシマ唄「ばしゃやま節」を歌うことになり、家のすぐ近所に住む“ 広おじ”こと、對知広夫(たいち ひろお)さんに教わりに行った。(奄美大島では、親しみと敬意を込めて年配の男性のことを「おじ」と呼ぶ。)
広おじは「歌うのが好きだったら島唄クラブがあるから、遊びに来てみたら」と誘ってくれた。

それまでにもシマ唄は中村さんの生活の中にあり、お母さんが子守歌がわりに歌ってくれていた記憶があるという。

当時は大島紬の染工場が集落にいくつもあり、染めの匂いと共に、機織りの音が当たり前に聞こえていた。
昔ながらの島の風景が、子ども頃の記憶として残っている。

思春期には「人前で歌うのは恥ずかしい」と思うこともあったが、「歌うことが好き」という気持ちで続けられた。短大に進学するため、一度は奄美大島を出たが、ときどきは島に帰ってきていた。

そんな折、中村さんにシマ唄を教えてくれていた師匠でもある広おじが「レーベルの人が、奄美大島のCDを作りたいと言っている。シマ唄のオムニバスを出したいそうで、レコーディングに参加しないか。」と声をかけてくれた。

まだ10代だった中村さんとお母さんは荷が重いと感じ、「そこまでの歌は歌えないから…」と断ったつもりだったそうだが、そのうちレコーディングの日程が知らされ、参加することに。

そのレコーディングがきっかけとなり、ソロでもCDデビューすることが決まった。
「そんなつもりで歌っていたわけではなかったのに、CDを出させてもらえて、今思えばありがたかった。」
東京でのプロモーション活動など、刺激的な経験だったという。

その後も歌手活動は続き3作のソロアルバムや、J-POPでのユニットシングルなど、活動の幅は広がっていった。

短大卒業後は地元である笠利町に戻り、歌手活動と同時に幼稚園の先生の仕事をしていた。
2012年、結婚。一度は奄美市名瀬に住んだが、「集落行事がないのはさみしい」というご主人の希望もあって中村さんの地元、笠利町の集落に戻ってきた。

転勤で地方を転々とした子供時代を過ごしたご主人が、ふるさとがあることの有難さも教えてくれたという。

3年ぶり、ようやく開催できた集落の新年会

近年の新型コロナウィルスの蔓延によって、シマの人たちが大切にしてきた集落行事を行うことができなくなった。

2023年、ようやく行動制限のない年始を迎え、3年ぶりとなる集落の新年会が執り行われた。その新年会で、中村さんが唄うと聞きつけ取材に入らせて頂いた。

「(人前で唄うのが)久しぶりで緊張する・・・」と仰る中村さん。
新年会にいらっしゃった老人会の皆さんは「瑞希ちゃん、よろしくね~」と皆親しげであたたかい。

緊張の面持ちで皆さんの前に出た中村さんが歌い出すと、その張りのある透き通った歌声に皆が聞き入り、涙を浮かべる人もいた。

歌声に聴き入る集落の方々。

歌い終わると、わっと拍手が起きた。

中村さんの目には涙が浮かんでいた。

「3年も集落行事がずっとできなくて、やっと開催できたこの会に呼んでもらえたことがすごく嬉しかった。」と涙のわけを語ってくれた。

中村さんの緊張も解け、二曲、三曲と歌っていくうち、客席からも歌う声がふたつ、みっつと増えていき、チヂンを叩く音も。

皆さんが同じ唄を自然に歌っている様子は、内地出身の私には経験がなく、とても感動的なシーンだった。

唄が盛り上がるうち、また自然に皆さんの踊りが始まる。その場は一気にお祝いのムードになった。

「みんなで歌いたい」という気持ち。

唄の合間、中村さんが集落の皆さんに話しかけた。
「おじ、おばたちが歌う唄と、私が教わった唄が少し違うときがある。どんな風に歌っていたのか、ぜひ教えてほしい。」

シマ唄は、同じ唄でも集落ごとに少しずつ違うそうだが、同じ集落の人でも上の年代の人が歌うものと自分が覚えたものでは、唄が変わってしまっていると気づいたという。

中村さんを昔からよく知る集落の日高啓琢(ひだか ひろたく)さんは、「瑞希ちゃんのすごいところは、日本一の賞をとっても奢らず、謙虚で何も変わらなかったところ。賞を取った後も集落の年配者のところに島唄を教えてもらいに行っていた。」

その学びたいという気持ちは今も変わらない。

シマ唄は譜面が残せるものではない。
「おじ、おばたちの身体に残っているものを分けてもらいたい。いつか教えてもらうではなく、今からどんどん学んでいきたい。」
中村さんは、この土地で当たり前に残されてきたものも、何もしなければ変わってしまうという。

「今日みたいに、みんなで歌いたいと思う。人に披露するために唄が変わってしまった部分もあるかもしれないが、年配の人が歌ってきた本当のシマ唄を残して、皆で歌えたら嬉しい。」

子どもたちに伝えたい、シマのおじたちの想い。母となり、子育てがこんなに大変だとは思わなかったという中村さん。

ご自身のお子さんにも色んな思いがあるという。
「自分の子どもに必ずシマ唄を歌ってほしいというわけでは無いけれども、自分のルーツはここなんだと言えるものを残してあげたい。」

「今はわからなくてもいい。いつか、シマを出たとき、大人になったとき、集落の人たちがあたたかかったことを幸せな記憶として思い出してくれたら。」

その思いはご自身のお子さんに向けたものだけではない。島唄クラブの子どもたちへ、一緒に教えているおじたちの想いを伝えるサポートをしたいという。

大笠利わらぶぇ島唄クラブの子どもたちと中村さん

「島唄クラブのおじたちが、子どもたちに育てたかったもの、シマ唄が歌えることや、八月踊りが踊れることなど、自分が島出身だということを伝えるすべを持っていることは、それがいつか糧になるし、励みになる。 そのバックボーンの凄さを感じられるように、おじたちのサポートをしていきたいと思っている。」

そう語る中村さんの謙虚な言葉には、ご自身の育ててくれた地元への感謝が滲んでいた。

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この記事を書いたフォトライター

ムラタ マチヨ

ムラタ マチヨ

福岡県出身。二児の母。13年間東京で暮らし、2018年春に夫のふるさとである奄美大島に移住。元々は都会が好きで、移住には不安も感じていたが、奄美の人や文化に触れ今ではすっかり島の魅力に取り憑かれている。外から移住したからこそ分かる島の良さ、楽しいことをたくさん発信していきたい。

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